“博多のチョコのはじまりどころ”として福岡ではお馴染みの、創業75年のチョコレート専門店Chocolate Shop。戦前、戦後を駆け抜けた初代亡き後その背中を追いかけ、人気商品『博多の石畳』をはじめ、焼き菓子やケーキなど次々と新商品を開発し、一時代を築いた佐野隆氏のパワーの源を伺いました。

Profile

第64回 佐野 隆(さの たかし)

Chocolate Shop オーナーシェフ
1956年福岡県生まれ。コッペパン1個15円の時代にトリュフ1個100円の商いをする父 源作の背中に葛藤を抱きながら、自らもチョコレート職人の道へ。現在160点以上の商品を約50人のパティシエと共に手作りし、“博多カルチャー”、“Made in HAKATA”を発信し続けている。
チョコレートショップウェブサイト http://www.chocolateshop.jp/

※肩書などは、インタビュー実施当時(2017年8月)のものです。

夕食はチョコ三昧

売れ残ったチョコレートが夕食に並ぶ日常を、子どもの頃は当たり前だと思っていましたが、嫌でしたね。大きくなるにつれ、食卓への違和感や、母と姉が私の学費を稼ぐために店を閉めた後も働くことへの申し訳なさなど、様々な気持ちが湧き出てきました。ステテコに前掛け姿でひたむきにチョコレートと向き合う父に対して否定的でした。映画『男はつらいよ』の寅さんのように、他人から見れば人気者ですごく楽しそうだけど身内は大変なんだ、そういう感じでした。

15歳で旧帝国ホテルの料理人見習いをしていた父は、仲間のロシア人が作った一粒の“トリュフ”に魅せられました。その後、外国航路船の料理人として働きながらヨーロッパへ渡って“ショコラ”を学び、博多で小さな専門店を開いたんです。

あるとき、チョコレート屋を開いたのが、なぜ戦時中だったのか聞いてみたんです。不思議じゃないですか?戦時中、トリュフを専門に扱う店が博多の一角で誕生したなんて。すると、本当はその少し前の1939年にオープンしていたと言うのです。ですが、当時は敵性語である外国語の表記ができずに看板が出せなかった。さらに1942年、父に“赤紙”が届き、「帰って来られないかもしれないから、今を創業の年にしてほしい」という願いがあったそうです。1945年、無事に戻り、営業を再開しました。私が生まれる前の話です。

偉大な父の背中を知る。

1974年、大学2年生の時、家出をしました。持ち金をはたいて辿りついた神戸でアルバイトを探したのですが、やれることはお菓子作りだけ。それで求人募集中だった、パンの名店“ドンク”へ入社しました。糊のきいた、真っ白なコックスーツが眩しかったですね。「うちと全然違うやん!」と。

神戸生活に慣れた頃、彼女への贈り物にトリュフを作っていると先輩たちから、「なぜそんなものが作れるんだ」と驚かれました。それをきっかけに、ドンクの社長が父の名前をご存知だったことや、関東にまで父の名が轟いていることを知り、驚きました。ステテコ姿の父が、本物のショコラティエだと実感した瞬間です。

神戸の後、父と同じスイスで修業し、1976年にパティシエとして博多へ戻りました。コッペパン1個15円の時代にトリュフが1個100円ですから、相変わらず売れ行きは厳しいままでしたが、店は幸い無借金。当時の自宅兼店舗は、現在の本店から目と鼻の先の博多区店屋町で約20坪家賃が9万円くらいでした。チョコレート専門店なのに、家計を助けるために始めたランチのカレーライスが人気になって1日に全体の半分、1万5千円くらいを売り上げ、何とか家族を養うことができました。

ギアが入った36歳。

頑なに信念を貫く父のトリュフを尻目に、修行を終えた私も次々と新作を並べますが、売れるのは最初だけで、誰もが父のトリュフを買っていく。「新しさがわかっとらん!」とお客様のせいにしてばかりの日々が続きました。ある時、父のトリュフの口触りが、私が習った本場の硬さと異なることに気づいたんです。日本人が大好きな、炊きたてのお米のように“もっちり”して、“ねっとり”としたくちどけ。もう一度父に学び、ひたすらチョコレートに向き合い、研究に没頭する日々がどれくらい続いたのか。ある朝、父が私のチョコレートをケースの真ん中に置いてくれたんです。頑固職人の父が、です。嬉しかったですね。

自信を持ち始めたのも束の間、私が34歳のときに父が、36歳のときに母が相次いで亡くなり、これまで背中を追ってきた父と経営を陰から支えていた母が一度に不在となりました。恥ずかしながら、私は36歳になるまで仕入れ先への支払い一つしたことがありませんでした。財務諸表も読めず、事業計画が立てられないことを痛感します。

“老舗”、“二代目”のプレッシャーが立ちはだかる中、1年、2年と経ち、あれこれ手を打っても現状は変わらず諦めの境地。ギリギリの選択の中で、当時の博多ではどこにも置いていない、“アシェットデセール(皿盛りデザート)”を出すと決めました。これがラストチャンスとばかりに、徹底的にこだわることにしました。その一つが、フランスの高級磁器ブランド、リモージュの1枚3〜4万円する高価な皿を使うことでした。銀行に100万円の融資を相談しますが、1日3万円の売上げしかない店ですから、断られて当然です。けれども、今は統合で無くなった2つの銀行がバックアップしてくれました。無事に皿を購入し、店に初めての行列ができました。そして、他のチョコレートやケーキも売れ始めたんです。

同時期に誕生したのが『博多の石畳』です。これで、ドカン!と一気に走り始め、パティシエも増えました。40代は、作っても作ってもすべてが売り切れるという、夢のイベントのような、職人冥利に尽きる毎日を経験しました。

博多から世界へ。

おかげさまで、創業75周年を迎えることができました。現在、約50名のパティシエたちが、約160点以上の商品を日々手作りしています。

売れない時代が長かったので、私は“売れ時”を感じた瞬間、“展開”ではなく、常に“深堀り”の方向へ舵を切ってきました。それは、職人魂を探求することで得た、成功体験を信じてきた結果です。しかし、今はスタンダートさえ変わる時代。“本流”を持ちつつ、時代の横糸が入っても通用するものにしていく必要があります。ですから、どんな場面でも“チャレンジ”という言葉を使って進みたいですね。

最初の海外チャレンジは、2014年のパリコレです。三代目となる佐野恵美子ならではの視点から生まれた、砂糖を使わないチョコレート、その名も『ZERO』。翌年、チョコレートの祭典“サンロン・ドゥ・ショコラ”で金賞をいただき、今年2月、パリのマレ地区に“3”を意味する『Les 3 chocolats(レ・トロワ・ショコラ)』を、10月に同店の日本1号店を地元 福岡にオープンすることができました。

Chocolate Shopが今在るのは、博多のお客様のおかげです。博多から世界へ向けた親子三代のステージは始まったばかりですが、まずは、博多の人々に美味しいと言っていただけるチョコレートをこれからも作り続けていきたいですね。

「杉山大輔」さん。
度肝を抜かれる楽しい取材でした。彼とはいきなりの肩車から始まった。屈託ない笑顔と溢れるばかりの情熱!東京生まれニューヨーク育ち38歳!慶應義塾大学在学中に19歳で起業!昔、孫泰蔵さんとお会いした時と同じ、優しさと圧倒的なパワーとオーラを感じました。世の中は刺激を受ける人との出会いに溢れている!3年後のニューヨーク協力、よろしくお願いいたします!

Chocolate Shop オーナーシェフ 佐野 隆


30代がこれから日本を引っ張っていかなければという思いを表現するため、「佐野隆さん、肩車させてください」とお願いし、インタビューがスタートしました。佐野さんの“過去・現在・未来”をお聞きすることができました。“博多から世界”の目標を掲げることで、常に世界から見た博多を意識して活動している姿に、経営者として強く共感しています。福岡に行かれた際は、是非Chocolate Shopに立ち寄ってたくさんお土産を買って、佐野隆さんの“笑顔爆弾”を伝染させてください!僕の次の目的地は、パリの『Les 3 chocolats』です。

チョコレートショップウェブサイト http://www.chocolateshop.jp/
「私の哲学」編集長 杉山 大輔

2017年8月 Chocolate Shop(福岡・博多)にて  ライター:マツオシゲコ  撮影:日高 康智

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